ごあいさつ

アンチドーピングをリードする人材として

鈴木 秀典氏

対岸の火ではないドーピングの現状
――新制度の意義をご紹介いただく前に、世界におけるドーピングの現状から教えてください。
過去にアメリカで、メジャーリーグ選手の薬物使用に関する調査報告書「ミッチェル・リポート」が公表されました。かなり名のある選手の実名が知らされたことで、世間にインパクトを与えた事件でした。
この出来事は二つの角度から見る必要があります。ひとつは、一般的にどれくらいの数の選手が薬物を使用しているか、という視点。もうひとつは、いわゆるトップオブトップの選手が使っているという視点です。
まず、ドーピングに手を染めている選手の割合。オリンピック種目の中で、オフィシャルな検査を行うと、1,000人中20人から30人ほど陽性反応が出ています。当然、意図的にドーピングを行っている選手は発見されない工夫を しているわけですから、実態はそれよりはるかに多い。アスリートが100人いたらそのうち何人かはドーピングをしているのが、世界の実情です。
――日本では、そこまでドーピングが広がっているという印象は受けませんが。
幸いなことに。ただこのところ、日本でも薬類のインターネット販売が非常に盛んになっており、個人輸入も容易になりました。加えて、日本に限らずいろいろな国が規制緩和をしているため、いわゆる処方薬が一般薬として手に入り易くなりました。 これらのことから、日本も禁止薬物を入手しやすい環境になりつつあります。実際、ドーピングに使われる代表的な薬剤ステロイドによる陽性の例も出てきているので、このまま放置すると極めて危険な状況になるのではと危惧されるところです。
近年、世界各国で青少年のドーピングが問題となっています。高校生の選手がドーピングに手を染め始めており、特にアメリカでは非常に大きな社会問題化しています。その背景にあるのが、「ミッチェル・リポート」でも明らかになった、 トップアスリートがドーピングをしているという事実です。メジャーリーグのみならず、先日、シドニーオリンピックのスーパーヒロインだったマリオン=ジョーンズが、ドーピングを理由に金メダルを剥奪されました。 こうしたトップ中のトップアスリートがドーピングをしているという事実は、ドーピングに手を染めている選手の多さよりも、非常に大きな、ネガティブなインパクトを与えるのです。これらのことから、ドーピングに関しては非常に楽観できない状況です。
WADAとJADAの取り組み
――ドーピングによって引き起こされる弊害について、あらためて幾つかご紹介ください。
意図的にドーピングを行うケースでは、副作用のことはあまり考えず、かつ大量に使われることが多いため、 当然副作用の危険は増大します。歴史的にみれば、ドーピングに手を染めてきた選手は非常に命が短いというデータが旧東欧で報告されています。 その他、発ガンしやすい、あるいは女性の男性化や、またその反対もあるなど、大きな社会問題ともなります。 特にステロイドの場合は肝臓を壊すこともあるなど、その弊害は枚挙にいとまがありません。
――スポーツの公平さが失われるだけでなく、ドーピングを行った本人のからだや社会に重大な悪影響を及ぼすわけですね。
こうした問題を防ぐため、1999年に世界アンチ・ドーピング機構(WADA)が設立されました。 それまでアンチ・ドーピングのリーダーシップをとっていた国際オリンピック委員会(IOC)から、WADAに役割がバトンタッチされた格好になります。 その後、2005年にUNESCOで国際アンチ・ドーピング条約が採択され、翌年には日本もこれを批准しました。 そして昨年5月、日本国政府は条約発効をうけてガイドラインをうち出しました。その中には、 2001年に設立された日本アンチ・ドーピング機構(JADA)が、 統括組織としてアンチ・ドーピングを進めていくと謳われています。
従ってJADAは、世界の動きと連動して日本国内のアンチ・ドーピング活動に取り組んでいるのです。
高まる薬剤師への期待
――ドーピングには、確信犯的に禁止薬を使用する場合と、不注意で禁止物質を利用してしまう場合、いわゆる「うっかりドーピング」があります。 後者については、必要な情報が一般市民に行き渡っていないのが現状です。
元来日本は、生活の身近なところに薬を取り入れている国といえます。その背景のもとで最近は、医師の処方がなければ入手できなかったような薬を、 インターネットを通じて、あるいは薬店で入手できるようになりました。 もちろん薬の摂取は自己責任の範ちゅうといえるでしょう。ただし、自己責任というからには、その責任を個人が全うできるよう、 正しく適切な情報を社会として伝えなければなりません。ではその役割を誰が担うのか。例えば薬店のことを考えた場合、そこには医師が介在しないので、 一般の国民と接点を持つのは薬剤師ということになります。つまり薬剤師が、今後ますます一般国民の健康を守る重要な役割を担うことになるのです。
特にスポーツの面では、2003年の静岡国体からドーピング検査が正式に導入されました。これは成人のみならず少年(高校生)も対象として、 非常に幅広い世代にわたって行われるものです。スポーツ活動に伴う薬物使用に関しては、現実的には薬剤師の方々が最初の窓口になります。 そういった意味で、薬剤師の方には正確な情報をお持ちになっていただき、適切な情報をアドバイスしていただく必要があります。
なぜいまスポーツファーマシストか?
――薬剤師の社会的使命のひとつとして、アンチ・ドーピング活動を捉えるべきだということですね。
とはいえやみくもに「危ないから駄目」と言っていれば良いというものではありません。ドーピングの場合、 「この薬はこういう状況だったら大丈夫」とか「こういう状況になったら止めましょう」といったきめ細かいアドバイスが求められる シチュエーションが必ず出てきます。スポーツに関して国民の健康を守る役割は、薬剤師の方にしか期待できないだろうとまで我々は考えています。
それほど重要な薬剤師の役割ですが、現状、薬剤師養成のカリキュラムでは、アンチ・ドーピングに関して、 多少は触れられるでしょうがそれほどシステマティックには組み込まれていないと思います。我が国とすれば、 条約を批准した昨年がいわば「アンチ・ドーピング元年」ですから、その点はやむを得ないところでしょう。今後薬剤師の方々に、 正しく必要な情報は何かを知っていただくためには、何らかのシステムを設け、その中で行われるカリキュラムをクリアする必要があると考えました。 それが今回、日本薬剤師会とJADAが協同して創設した「スポーツファーマシスト」の資格制度です。
――「スポーツ」というと、トップアスリートが行うような競技スポーツを連想しがちです。「スポーツファーマシスト」が活動するフィールドは、やはりそのあたりが中心になるのでしょうか。
いえ、決してトップアスリートに限られるものではありません。スポーツの土台は「からだを動かす」ことですから、 一般の方々にも当然にかかわってくる問題です。
特に私が、スポーツファーマシストの未来像として期待するのは、中高年層へのケア。増え続ける医療費を抑制するために、 国はさまざまなスポーツ推進策を講じていますから、中高年層がスポーツ・運動する機会はますます増えてくるでしょう。 中高年層の中には、いろいろな病気で薬を常用している方が少なくありません。運動をすれば、当然血圧は上がり、脈拍も速くなるので、 その場合の薬の作用・副作用についても十分な知識がなければ、適切なアドバイスはできないのです。これからは、教養をベースとして、 スポーツと薬との関係を熟知しておくことが、薬剤師の方々に求められてくると言えるのではないでしょうか。
「スポーツファーマシスト認定制度」は、社会的な要請を踏まえて創られたものです。国民の健康を守るという薬剤師の役割をより一層明確化するこの制度を、 是非ご活用頂きたいと思います。